ここで取り上げる三つのドヤ街は、日本の主要都市である東京、横浜、大阪にある、肉体労働者が集中して集まる地区のことだ。20世紀の日本の都市は、地方からの移住者をのみ込み、成長してきた。

山谷は、かつての東京・江戸の北の境界で、移住者にとっては、東北地方から東京に入る前の最終地点となる。この境目の地域には「どや」と呼ばれる安宿があり、移住者たちはそこに泊まり、酒を呑み、買春をすることができる。山谷は、今日の吉原の北側に位置している。死刑宣告を受けた男が東京を去り、処刑所に至る直前の橋が泪橋である。山谷は泪橋を中心に広がっている。

私がいつから山谷に魅了されるようになったのか、正確には憶えていないが、いずれにせよそれは、1980年代の終わり頃、日本が不動産バブルに沸く頃だった。私は、87年には日本の建設業界のアナリストとして活動するようになる。東京は、初めてのスカイラインを作るために古きものを一掃した。その工事に、山谷の路上から、労働者たちが日雇いで駆り出されたのだ。

私は、百々俊二の『新世界むかしも今も』におさめられた写真を通して、大阪・佂ヶ崎のことを知った。1986年に出版されたその写真集は、新世界とその住人のポートレイトである。新世界は、南大阪の境に位置する佂ヶ崎と隣り合う大阪の歓楽街であり、南大阪にとって、北東京に対しての山谷と同じような関係性にある。三番目のドヤ街は横浜の寿町だ。横浜の南側をぶらついている時に偶然足を踏み入れた。近所の学校に通っていた娘が、炊き出しを手伝ったりもした。機会さえあれば、それらの場所をまた訪れてーー時にそれが力を削がれるような体験であろうともーーあの独特な空気をまた味わってみたいものだ。

後に私は、ドヤ街で撮られた日本写真の幾つかの「古典」と出会うことになる。とりわけ、それら全ての父ともいうべき井上青龍の「佂ヶ崎」である。井上は1950~60年代に佂ヶ崎を撮った。ちょうど、先輩である井上が若き森山大道に影響を与えた頃でもある。ドヤ街は多くの写真家の主題であり続けてきた。その写真集のうちの幾つかをこの文末で挙げている。この展覧会では、井上青龍の作品とともに、4人の卓抜の現代写真家による作品を紹介する。

寿町 : 梁丞佑 「人」
釜ヶ崎 : 星玄人 「大阪 西成」
釜ヶ崎 : 須田一政 「走馬灯のように 佂ヶ崎 2000・2014」
山谷 : 橋本照嵩「山谷」

梁の作品は10年前に撮られた。彼は撮影を始める前に、その場所と人を知るために寿町で時間を過ごした。ふつう、ドヤ街でカメラを持つことは難しい。梁の、肉体労働を含むさまざまなことに手を染めた経験が、その閉鎖的な社会に馴染み、信用を得る助けになったに違いない。

星は、新宿の夜の世界を被写体に卓越した写真を撮った。そしてここでは、彼が佂ヶ崎(大阪西成)で撮った印象的なカラー写真を紹介する。

須田は大阪芸術大学で教佃をとっていた頃、ミノックスカメラを携えて佂ヶ崎の街を歩いていた。近年ではその地区の別の側面を観察するために夏祭りの期間中にそこを訪れた。時折、街にカメラを持ちこんでいることに対して言いがかりをつけられもした。今日でも路上では違法なギャンブルやその他の行為が行われていることを理由に、地元の人々は街の外の人間に対して疑り深く、神経を尖らせている。

橋本は自身の故郷である東北とその他の地方を撮った写真で知られる存在であるが、60年代に若き青年として初めて東京にやってきた頃、山谷に住み、日雇い労働者としてある期間働いていたことがあった。その後、彼は写真を撮る目的で山谷に戻った。

ドヤ街は特別な場所だ。ドヤ街は私たちの本性と根源を表している。それは、仮面を剥がされ、持ち物とお金を無くし、権力を奪われた私たちそのものだ。今日ではほとんどの人が都市に住んでいる。そして、暮らしは文明化されていると考えられている。しかしながら、私たちはどのようにしてここまで来て、快適な暮らしを送っているのだろうか?たいてい、私たちの先祖がよりよい暮らしを求め荒れ地から出てきて、圧倒的な困難と格闘してきたのだろう。彼らはみな、ドヤ街か、それに相当する場所を通過してきたのだ。

私は自分の家系の100年以上前の歴史をほとんど知らない。しかしながら、この短いたった1世紀の間に、渡りの炭坑労働者だった家族がいた。首つり自殺をした家族がいた。戦争で婚約者を失い、次の戦争で命を奪われた人、戦火のもと家族と離ればなれになった人、アルコール中毒と倒産を同時に経験した人を、貧困にあえぐシングルマザーとその小さな子供たちを、私は知っている。それらの苦しみは、どのような家系にあっても、いつか、私たちの先祖が味わってきたことだ。ドヤ街は、時代を超えて人間が経験し得るそのような現実と私たちを向き合わせてくれる。

ーマーク・ピアソン(禅フォトギャラリー)

Artist Profile

梁丞佑

韓国出身。1996年に来日し、日本写真芸術専門学校と、東京工芸大学芸術学部写真学科を卒業。その後、同大学院芸術学研究科を修了し、日本を中心に活動する。2016年に禅フォトギャラリーより刊行した写真集『新宿迷子』にて、新宿・歌舞伎町の街を居場所とする人々をモノクロームスナップショットで記録し、土門拳賞を受賞。2017年には同じく禅フォトギャラリーより写真集『人』を刊行した。同年パリのinbetween galleryにて個展を開催するなど、近年は国際的にも活躍の場を広げている。その他の写真集に『君はあっちがわ 僕はこっちがわ』(2006年、新風舎)、『君はあっちがわ 僕はこっちがわ II』(2011年、禅フォトギャラリー)、『青春吉日』(2012年、禅フォトギャラリー)、『青春吉日』新装版 (2019年、禅フォトギャラリー)、『The Last Cabaret』(2020年、禅フォトギャラリー)、『ヤン太郎 バカ太郎』(2021年、禅フォトギャラリー)、『TEKIYA 的屋』(2022年、禅フォトギャラリー)、『荷物』(2023年、禅フォトギャラリー)などがある。

橋本照嵩

1939年宮城県石巻市生まれ。1963年日本大学芸術学部写真学科卒業。1974年、写真集『瞽女』出版(のら社)にて日本写真協会新人賞受賞。同年、荒木経惟、中平卓馬、深瀬昌久、森山大道らとともに「15人の写真展」(東京国立近代美術館)へ参加し「瞽女」を出品。作品は国立近代美術館へ収蔵された。1979年から1981年には韓国を精力的に訪れ李朝民画を撮影した。2011年に被災した故郷の石巻へ定期的に帰郷し撮影を続けている。近年は「瞽女」シリーズを中心に国内外を問わず多数の個展を開催しており、主なものに禅フォトギャラリー(東京、2020年)、池田記念美術館(新潟、2022年)、AN-A Fundación(バルセロナ、2023年)などがある。主な出版物に、『北上川』(2005年、春風社)、『石巻-2011.3.27〜2014.5.29』(2014年、春風社)、『西山温泉』(2014年、禅フォトギャラリー)、『新版 北上川』(2015年、春風社)、『叢』(2016年、禅フォトギャラリー)、『山谷 1968.8.1-8.20』(2017年、禅フォトギャラリー)、『瞽女アサヒグラフ復刻版』(2019年、禅フォトギャラリー)、『瞽女』(完全版、2021年、禅フォトギャラリー)、『石巻 1955.6-1969.5』(2023年、禅フォトギャラリー)などがある。

須田一政

1940年東京生まれ。1967年から1970年まで寺山修司が主催した劇団天井桟敷の専属カメラマンとして活躍した。1997年に写真集「人間の記憶」で第16回土門拳賞を受賞した。主な著作は「風姿花伝」、「わが東京100」、「人間の記憶」、「民謡山河」など。

井上青龍

1931年高知県土佐市生まれ。

1951年より岩宮武二に師事。大阪・釜ヶ崎地域の写真を撮り続け、1961年に「人間百景—釜ヶ崎」で第5回日本写真批評家協会新人賞、カメラ芸術新人賞を受賞する。

1976年に大阪芸術大学芸術学部写真学科講師となり、1977年に同大学助教授、1987年に同大学教授となった。

しかし1988年、奄美大島での撮影中、波にさらわれて事故死した。享年57。

Publications & Prints

梁丞佑